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monasuky

monasukyのJagung Bakar。インドネシアの空の下で鋳金作品を猫と一緒にトウモロコシを焼きながら諦めずに作る、その記録。されど技法、なかれど技術、永い道のり完成は見えると遠のく。

振り返る個展 「あの山の二階」評論文



          ちょっと不思議な物語

 画廊の扉を開けると、すぐ正面の平台にはきらきら光る小さなアクセサリーがびっしり並べられている。額縁に収まった水彩のドローイングも。どこにでもいるような猫や鳥がひっきりなしに出たり入ったりしている。金属の塊があしらわれた立体もある。床には大きな馬の胴体を短くした全体像。コンクリート打ちっぱなしの天上の梁からはメビウスの帯、太い紙がよじれてはいないが、輪になってぶら下がっている。小窓に張り付いた真っ黒いボール紙を折って作ったブラインド。ここには身近にあるものは何でも細工し連ねてしまう才気と感性とが共存している。
 小さく金色に輝く棒状の立体が幾つも集合している。何か儀礼用に用いられた道具類か、と。よく見ると仏塔の九輪かと思わせるてっぺんの四角の中に顔がある。隣の「コーヒータイム」と題するレリーフで、向かいあって椅子に座る、インドネシアの椅子の脚に手の込んだ彫刻を施されたものを独立した作品としたものだった。神殿柱のカリアティードを思わせる。オブジェとしてそれを幾つも作って、それでも足りないとみえ、鏡を立て掛け倍に膨らませ、にぎやかだ。これが、大きく姿を変えたらと見渡すとあった。鋳造した細長い幹の上に乗せた紙で、ぎざぎざに折ったボール紙の造形。重いものと軽いもの、その軽さを意識させない発想がある。この丸太ようの背の高いのがそれにあたる。鋳造製の何本もある密林を想った。
 しかし、それにしても暖かく、やさしくほっとする休息空間。柔らかな、それでいて鋭いまなざしに酔う。肩肘張らずすっと溶けこみ、きっちりとシャープなものの形が訴える。寸詰まりの馬はユーモラスの影のむこうに、ものの形を集約して、かたちにできない不思議な情感、雰囲気、そして思考までもがぎっしり詰まっている。フォルムに対する限りない追求が(あくなき好奇心)静けさ、息吹、愛情を通じて、生きることへのオマージュを伝える。形の向こうに広がる壮大な空間を予想させるスケールも備えている。
 日常生活の中に横たわっている物、物、物。囲まれ、溢れるそれらを丁寧に一つずつ取り上げる。それら素材をいくぶんか崩して、並べると開けてゆく別の空間、不思議なリアリティーをもった世界に迷い込む。四角に切った、肉厚で硬くて歯の折れそうなドリアン。手間には錆びついたスプーン。二つを対比するオブジェこそが日常を反転させ異質なものが出現しシュールな存在のある空間を構成する非日常への入り口である。かぶりつきたいとは思わないが、四角に切った柘榴状のドリアンが三つも並べられている。初めから食欲をわかせない代わりに、ドリアンの描くイメージをおいしく果物や南国を含めて、見る者にさまざま連想させる。
 銅や真鍮を溶かした炉の外にはじけた箔膜をピンセットで摘み上げ、漆を塗った木の表面に並べると解読不能のヒエログリフの列。金属くずとして箒でまとめてすてるものまでもが掬い取られる。型にはめて鋳造する大きくて重いものから小さくて掌にのるものの落差を軽々と飛び越え、その両方を(リズミックに)往還する。しなやかでとらわれない発想。
 金属を鋳型にはめないで制作する水彩のドローイングは、絵本にでてくる(動物が多いが)主人公が、物語を生きいきとした感触で語り掛け、踊りだす。表現のジャンルにも境はない。
 梶浦聖子は生活と自然の風景をつくる。あてもなく歩みはじめるようにみえると、いつの間にか元のところに帰ってくる。あるいは戻る場所がある。底から見える、ジョグジャカルタと武蔵野の丘陵地を行き来する風景だ。
                        2014.5.5 毛利輝太郎

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今年4月に開催した個展です。よい出会いのある展覧会でした。
個展の最終日、「あなたに文章を送ります」という方にお会いしました。
そして、こんなうれしい評論文をいただきました。郵便で届いたのです。
ほんとうによく見て、感じて、考えて下さったのだなと思い、何度も何度も読み返しました。
筆者に許可を得て、掲載することにしました。カタログのようなものを制作して印刷できたらなぁと思っております。ありがとうございました。

12月に大きな展覧会が決まりました。
未来を担う美術家たち 17th DOMANI・明日展
2014年12月13日(土)~2015年1月25日(日)
国立新美術館 企画展示室2E

前の展覧会を思い起こして、今の制作を考えて、次の展覧会をいいものにするようがんばります

でも、雨で鋳込みができないんです(言い訳)

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